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2010年12月10日金曜日

保釈から裁判まで

 保釈されてから、毎日のようにこれからの事を考えていましたが、1ヶ月後の判決によっては再び拘束されることも考えなければならず、どうしていいのか判らない状態でした。
 ともかく、止まってしまった現場を再開し、工事を完成することが先決だと考え、私も現場に出ることにしました。
 その間、弁護士から連絡があり、4月27日の裁判のための書類作成をしてくださいと言われ、私は上申書、父に陳情書、妻と従業員2名にそれぞれ嘆願書を書いてもらうことになりました。
 私は留置場にいる間、すでに便せん16枚の上申書を書いていたので、それを短くまとめ、父と妻や従業員の文章は、先生が下書きしたものを各々書き写すというものです。それらは先生が、私や妻の話を聞いて作文したもので、父や従業員が考えた文章ではありませんでしたが、妻にとっては「夫が居ないと生活ができない」という内容で、従業員にとっては「社長が居ないと会社が潰れてしまい、私たちも路頭に迷ってしまう」という内容、父の上申書は、「私の(父の)会社が倒産した際に息子にもいろいろと苦労をかけたため、息子は免許がなくなってからも車を運転して仕事をし、家族を養わなければならなかった。知らなかったこととは言え、父親として監督不行届であった。」という内容でした。
 つまり、とにかく本人は反省しているので、周囲の人たちからの情状酌量を求めて、それを元に検事とたたかい、執行猶予をもらうことが最良の策であり、その方法しかないということでした。そしてその勝算はわからず、あくまで50:50だということでした。
 妻や従業員たちは、先生の作文をほとんどそのまま書き写して先生に送ってくれましたが、父は「自分の会社の倒産のことを何故書かなければならないのか?」という点が不満となり、少々親子喧嘩にはなりましたが、最終的には母が一部修正して書いてくれ、裁判直前に送ってもらうことができました。

 4月27日、私と妻と従業員のWさんは、今にも雨が降りだしそうな厚い曇り空の下、朝7時の電車に乗って、霞ヶ関の東京地方裁判所に向かいました。
 電車を乗り継いで裁判所に着くと、裁判所前の歩道で「違法裁判撤廃!」の旗を掲げ、ハチマキをした20人ほどの人たちが、ビラを配り何かを拡声器で叫んでいました。
 私たちは、入口で空港と同じようにX線での荷物検査と身体検査を受け、広いロビーに入り先生を待ちました。
 10時の開廷時間15分前に先生が到着し、私たちは29階の第15号法廷に入りました。まだ、前の裁判が終わっていないようで、10人ほどの人が傍聴席に座っており、検事と弁護人と被告人も座って、裁判官の入廷を待っている様子でした。
 しばらくすると、裁判官と書記官が入り起立して一礼をしたあと、すぐに判決文が読みあげられ、被告人は執行猶予付きの判決を言い渡されました。緊張した面もちだった被告人は、「執行猶予...」の言葉を聞いた後、ホッとした様子で笑みを浮かべたのがわかりました。
 その後閉廷し、傍聴人が部屋を出た後、先生は正面向かって右側の弁護人席にすわり、私はその席の前のイス、妻とWさんは傍聴人席に残りました。
 しばらくすると太った目つきの悪い検事らしき人と、アシスタントらしい若い女性が山盛りのファイルを持って入廷し、検事席につきました。太った検事はファイルを風呂敷包みから出すと、瞬きもせずにセンスの悪いメガネの奥から、ずっと私を睨みつけていました。検事と被告人という立場とは言え、初めて顔を合わせる人に対して、とても失礼なガン付けのため、(なんだ、こいつは...)私も負けじと睨み返しました。
 5分ほど睨み合っていたでしょうか、そのうち裁判官が入廷し裁判が始まりました。

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